今という時間を豊かに過ごす
当時、小学生だった息子とはじめて二人で山に登る機会を得た。
埼玉県の奥武蔵にある960m程の山とはいえ、全行程18km。初心者の我々には、多少強行軍であったのかもしれない。
この登山を通じて、運動不足気味の私とは対照的に、日頃サッカーに明け暮れる息子のたくましさに驚嘆すると同時に、集中力・創造力・表現力という点で色々と教えられることが多い1日であった。
山道を登り始めた頃、これからの長い道のりを考えてか、息子はツエに適した木を見つけては、
「これがいいのとちがう・・・」と、色々な木や太い枝を血眼になって探していた。
また、途中きれいなせせらぎに出くわした時には、その水で顔を洗って「ヒィヤァッ!すごく冷たい!」と率直に驚きの声をあげる。
さらに頂上付近では、ウグイスが奏でる音楽を聴いて「ホオッウ、ホケキョ」とウグイスになりきって真似をしてははしゃいでいる。
その姿を見ていると、ひたすら見るもの聴くものに自分のこころと体を委ねているという感があった。
一方、私はというと、仕事のことや生活のことで気になっていることが、断ち切っても断ち切っても頭に浮かんできてしまう始末であった。
頭が空っぽで今のことに熱中している息子と、頭のどこかに色々な雑念がふくらんでいる(今を生きず、時間がないとしている)私。どちらが今という時間を豊かに過ごしているかは、言うまでもない。
「無我夢中」で五感だけに今、集中
いまや大人となった我々にも、間違いなく子供の時代があった。
私も当時を振り返れば、友達とのビー玉遊びや、田んぼでのカエル取りをしては、夕食の時間も忘れ、とんでもなく遅い時間になって家族を心配させたものである。
ところが、大人になるという代償(?)として、何ものにも変えがたいそんな「無我夢中」という素晴らしい瞬間をどこかに置き忘れてきてしまったのかもしれない。
見る・聴く・嗅ぐ・感じる・触るという五感だけに集中し、時間をことさら意識することもなく、ただ今やっていることに没頭している。
意識がない様で、実は逆。後々そのような場面のことはよく覚えていて、遠い昔のことなのに不思議と記憶がありありとよみがえってくるものである。
これが“無我夢中”のすばらしさなのかもしれない。
時間貧乏脱出のヒントを子どもから学ぶ
交通網が発達し、電気製品の普及が進み、世はまさにITの時代。確かに生活は便利になり、それにつれて我々が自由に使える時間は飛躍的に増えた。
しかしよくよく考えてみると、物事にとらわれない「こころのあり方」を手にしていなければ、本当の意味での自由な時間や豊かな時間を得ているとはとても言えないのではないだろうか。
日常使える時間というものを、ただ能率・効率重視という視点でのみとらえる。
そして、ただただ使える時間を増やすというこういった次元ではなく、時間そのものを意識しない瞬間。時間に追われている気持ちが何か急にストンとしぼみ、その時間をただ楽しむことで、豊かさがこころに広がった瞬間。
ともすれば陥りがちな「時間貧乏症」というものから脱出するヒントをまた一つ得たと、今回の息子との山登りを通してしみじみ想ったものである。
今、時間がないのではなく、時間を味方につける
こう考えてくると、人生を豊かに過ごす上で、どの人にも神様が共通に割り当てられた1日24時間という「時」を味方に付ける意義ははかりしれず重いものかもしれない。
今回、息子と全く久しぶりにじっくりと関わり、じっくりとこどもの生態(?)を観察したことで、本来人間に備わっていた豊かな時間の過ごし方のヒントを私なりに振り返れたように想う。
それは、大人になるにつれて良しとされていた常に「よく考えること」を時には手放し、「ただ感じること」を前面にだすということではないだろうか。
いま・ここを大切にする姿勢が、こころに真のゆとりと安らぎを生むものだと確信することができたのは、とても貴重な体験だった。
今回、このような親子で課題に取り組む機会を得たことに感謝している。
あなたご自身は何を感じられ、どのように進めておられますか?
「今、時間がない」から脱出するあなたへの言葉
- 「いまのことに熱中」
- 「無我夢中」
- 「常に『よく考えること』を時には手放し『ただ感じること』」
時間を味方につけるあなたへの問いかけ
- あなたにとって、無我夢中の時間はありますか、またそれはどのようなひと時でしょうか?
- あなたはどのようにして、ゆとりある豊かな時間を過ごしておられますか?
(2022年4月19日リライト)