いち早く“高齢者が活躍し、働く時代の到来”を察知して、シニアの方にも働く場と生きがいを提供し、社会のニーズと結び合わせた株式会社高齢社。
テレビや雑誌等でもご紹介されているので、ご存じの方も多いのではと思う。
今回は上田 研二会長(当時)のお話を、上田会長に憧れ、会いたいと願うタイガー警備保障株式会社の吉川嘉一郎常務と共に伺った。
上田会長にお会いする前の私の想い
2年ほど前、人に薦められた1冊の本(※1)に株式会社高齢社の紹介がありました。
“高齢者専門の人材派遣会社”ということで、請負と派遣の違いはありますが、我が社も人を扱う警備会社であり特に興味を持って読んだのです。
当時の私は経営者側と労働者側の狭間に立ち、悩み苦しんでいる状況でした。
問題を他人の責任ばかりにし、自業員(※2)に対していつも厳しい顔。
「~しろって言うてるやろ!」
「なんで出来へんねん!」
「何回言うたらわかんねん!」
が口癖でした。
とにかくいつも怒鳴り、命令ばかりしていて、自業員との信頼関係も薄いものだったのです。
※1 「ちっちゃいけど、世界一誇りにしたい会社」 著:坂本光司 (ダイヤモンド社)
※2 自社のスタッフのこと。業に従うのではなく、自らが業に向かうという意味を込めている。
その様な時に知った上田研二会長(当時社長)の存在
- “社員≧顧客≧株主”で“社員第一主義”の徹底
- ガラス張り経営
- そして午後4時になれば冷蔵庫から登録社員や社内スタッフ、お客様がビール等の飲み物や乾き物を出して談笑をするコミュニケーション 等々…
高齢社の取り組みは、私にとって全てが新鮮でした。
そして社員全員が一丸となって会社を盛り上げている企業には私が悩んでいるような問題は起こらないと痛感したのです。
原因は自業員にあるのではなく私に問題があることを気付かせて頂きました。
上田会長は社員第一主義に徹する想いを貫き、その信念で苦難に立ち向かわれていたのです。
座右の銘であられるという「いかなる苦難にも負けず、苦難を友とし、苦難を我が師とする」を拝見し、苦難を前向きにとらえ味方にするという想いにも感銘しました。
この熱い想いや信念はどこから湧いてきているのか?
また高齢社の社風や雰囲気を体感してみたい、そしていつか上田会長にお逢いしたいと想うようになっていったのです。
経営者になる前となった後から感じる点
吉川常務と共に、上田会長にはまず経営者として、自らにどの様な“違い”が生まれてきたか、そしてどのようにシフトしていったのかを伺った。
経営者になる前
私は地元愛媛県八幡浜市の高校を卒業し、東京ガスの検針員としてビジネス人生をスタートさせました。
ここから紆余曲折をへ、社会の荒波に必死にもがいているその様な時、ふと経営者への道につながる切っ掛けが訪れたのです。
1991年、私が実に53歳の時─取締役営業本部長として子会社への出向の機会がそれでした。
当初は「本社の天下り(出向者)に何ができるのか?」という軋轢(あつれき)や対立が、少なからず存在し、私も、3ヶ月で11kg痩せたりもしました。
しかし、私の日々取り組む姿に何かを感じてくれた幹部から
「俺は上田さんを信用する!会社をよくするために皆で協力し合う!」
という様な声が徐々に出始めたのです。
社内の理解者が増えると並行して、業績は急回復。
2年で累積赤字18億円を払拭するという幸運に恵まれたのでした。
当時の社長の卓越したリーダーシップのもと、現場の一人ひとりの意欲が高まったことが何より大きかったと感じています。
経営者になった後
この体験から、今度は累積赤字実質6億、借金12億円の会社組織に経営者としての出向を自ら志願しました。
着任後現場の変化や業績に確かな手ごたえを感じた私は、思い切って赴任1年後の創立35周年式典を500万円掛けて実施。
そして就任当初掲げた単年度黒字を、社員の協力を得て2年目に達成。社員へ経常利益の10%を還元できたのです。
また、この35周年の際、夢のある未来ビジョンとして『5年後(40周年)には無借金・累積黒字化達成で、倍の20%還元、帝国ホテルで1000万円をかけて記念式典開催等々』を宣言しました。 (※こちらも約束通り達成)
経営者になって、何が一番変わったか
“経営者になって、変わった”というより、自らの想いが日々の実践とその結果を通じて研ぎ澄まされていった結果、今がある、と感じます。
『周りになかなか信用されないのは辛いが、それでも人間は相手を信用する方が幸せである』という私の強い想いもそのひとつです。
人を信じ、自らが本気で取り組んだ行動を見て社員が変わり、その変化を見て自分の想いがより確信となり高まっていったのではないでしょうか。
例えば高齢者が会社や家庭で不当に──いわば“粗大ゴミ”の様に──扱われている実態。
そうではなく、“産業廃棄物”であり貴重な資源であるという考え。
もっと社会は智恵と技術と意欲をもった高齢者の力を信じ活かしていくことが大切なのではないか?
──その信じる想いが、『高齢者に働く場と生きがいを提供する』という今の会社の経営理念に脈々と流れているのは間違いありません。
これからもこの信念を高め、さらに発展・進化しながら社会のお役に立てるよう積極的に携わっていきます。
『組織はリーダーの投影』 経営者の理念や一挙手一投足で、業績は大きく変わる
──全責任と重圧はもちろんあるが、だからこそ真にやりがいのある立場が経営者。
『人の想いは、行動と結果を通じてより本物になる』 組織の長としての経験が、自らの仮説や想いを確信や信念に尚一層高める
──上田会長の場合、営業組織の責任者・子会社経営者としてのV字回復経験が、創業に向けた理念の深まりであり、脈々と想いが受け継がれている。
『一人で始めなければ何も始まらない、一人では何もできない』 実験済みであり検証済みのその信念や理念が、人のこころに火を灯(とも)し、業績に違いを生み出す
──上田会長の場合も、理解者が増えた時に業績に弾みがついたのであろう。
事業の原点であるブレない熱い想い
私の“経営者人生”に影響を与えた出来事
私は6人兄弟の4番目として四国の田舎に生まれました。
父が地元では大きな紡績工場に勤めていて、幼少期は比較的裕福な暮らしをさせてもらっていた様な記憶があります。
しかし、ある時、その父が突然会社から解雇されました。
以来、生きていくために働かざるを得ない環境が、学生時代から続いたのです。
新聞配達を皮切りに、実にありとあらゆるアルバイトをしてきました。
その時はただただ無我夢中の日々でしたが、今から想うと我ながらよく続けられたなぁ、と感じます。
経営者として根底に流れる想い
振り返ってみると私はこれまで、怠け心が出たり挫(くじ)けそうになった時、出会った言葉を、一つひとつ噛みしめて前に進んできました。
「能力が高い人は、低い人の分まで三倍働け」
「先ずは無遅刻無欠席で信頼を得る」
「(自分が)楽な時は、(相手から)信頼されていないと思え」
「難しい仕事の時こそ、断らない」
「方向が正しければ、必ず成果がでる。もし成果がでないなら、知恵と汗が足らないだけ」
働くとはどういうことなのか。仕事があることがどれ程ありがたいことなのか。
努力をすることによって人はどんなに可能性を広げることが出来るのか。
人が解雇されるとどの様な影響が出るのか──。
学生時代のアルバイトやサラリーマンであった頃の体験から、“人”と仕事との関係を見つめ続けてきました。
その中で特に、人、ひとりの存在の大切さ(人間尊重)、自分が味わった何とも言い難い経験を他の人に味合わせたくない気持ち(雇用安定・人への配慮)といったものが自然と育まれてきたのは間違いないでしょう。
人にこだわり、人に真にあたたかい経営道に邁進していくことが、事業の原点であることにこれからも揺らぎはありません。
上田会長の“違い”の原点
⇒『リストラ』という言葉。
本来は再構築という意味合いにも関わらず、人員削減と同じ語感になっている。
そして、ひとりの人の一生や周りの家族を含めてとても大きな影響があることにも関わらず、正当な経営手法として、とても簡単に当たり前に使われている昨今。
急拡大後の急降下、経営は市場環境に適応するものだから、リストラは経営上仕方がない。
──この、ともすれば当たり前になりつつある「仕方がない」「皆がやっていることじゃないか」に果敢に半旗を翻(ひるがえ)し、流れに一石を投じられた上田会長。
ご自身の原体験から、人の痛み、人への温かさが“人”を第一に据えたブレない経営や知行合一の経営に脈々といきておられる実感をもった。
- 従来の慣習や常識に囚(とら)われず、「自己の生き様や想いを事業に重ねる」
- 「人生観に裏打ちされた事業観づくり」を進め、経営者としての原点を明確にする
- 「周りの人の笑顔や喜びを、自分の進む力に変える」
真の経営者でいるためのスタンス
上田会長の現在の立ち位置は、どういった視点や考え方の“違い”から確立されたのか?さらに話を伺った。
今の立ち位置が定まっていった流れ
前職の東京ガスで、営業現場を数多く経験し初めて本社勤務になった時のことです。
私は、ガス器具を販売する100社にも及ぶ協力業者の政策を任せられました。
この時上司から最初に、「協力企業の発展を支えるのがあなたの仕事」という言葉を掛けて導いていただいたのです。
この何気ない言葉はこころに強く響き、その後自分の進む道での大きな礎(いしずえ)であり出発点となりました。
加えて、本田技研工業の創立者である本田宗一郎氏が「よき経営者の条件」として掲げた3つの要素、
- 人に好かれる
- 約束を守る
- 相手にも儲けさせる
中でもこの3番目の視点が、自分自身にパートナーとの関わり方の原点を育んでくれたように感じます。
私が想う真の経営者のスタンス
こういった中で、経営の現場では何よりも、己のみだけでなくパートナーと共に成長していくことの大切さを実感したのです。
そうしてそれが、私でありわが社の理念である
“人本主義(じんぽん主義:人や人とのご縁を真に大切にする考えや経営観)”
社員・協力企業≧顧客≧株主
というぶれないスタンスに繋がり、今のように深まっていったことは間違いありません。
3.真の経営者でいるために何が大切か?
また、中小企業のトップと広く深く関わりながら業務を進める中で、中小企業経営者の勘所の様なものがつぶさに見えてくるようになりました。
同じ商品を扱っていて、規模的にも似かよった会社でありながらも、業績や社風に大きな差が生まれている部分があります。
その真因は何でしょうか。
「企業は経営者の器で決まる」「バカな大将敵より怖い」ということです。
これを骨身に染みて実感しているかが我々経営者にとって大切なことではないでしょうか。
企業において、経営者の器の大きさや柔軟さ等、その重要さは計り知れません。
自分が“バカな大将”になっていないか…私自身も、それを常に意識しながら、これからも毎日未来へ歩を進めていきます。
- 相手にも儲けさせる、という視点(協力業者の発展を支える)
- 人や人とのご縁を“真に”大切にする バカな大将敵より怖い、ということを身に染みて実感している
組織の長としてこだわり続ける人・銘・書
インタビューの最後に、上田会長に尊敬する人物、座右の銘、座右の書を伺った。
尊敬する人物
私が最も影響を受けたのは、高柳健次郎先生。
主流になったブラウン管による電子式のテレビを85年前に開発された方です。
テレビの父と言われ、いかなる困難や窮地(※1)においても、夢をあきらめず、その後も日本のものづくりの技術レベルを大きく引き上げられました。
(※1)昭和15年に開催される予定だった幻の東京オリンピックで、本格的なテレビ放送を目指していたが、戦争で中止。戦後はテレビ研究を禁止される等。
座右の銘
この高柳先生が言われた「恒(つね)に夢をもつこと志を捨てず(※2)難きにつく」をかみ締め、自分の生涯の言葉にしているものがあります。
それが第1回で吉川さん(※3)にご紹介頂いた、「いかなる苦難にも負けず、苦難を友とし、苦難をわが師とする」という言葉。
私なりの信条で、とても大切にしています。]
(※2)それまで技術開発と言えば、単独で研究するイメージ。しかし、今では当たり前になったプロジェクト方式で多人数の意見を取り入れた研究を展開。“チーム研究”スタイルで志を高め合い、短期間で大きな成果を生み出す手法を確立。
(※3)連載第1回に登場したタイガー警備保障株式会社の吉川嘉一郎常務取締役
座右の書
高柳先生の熱い想いを胸に、第3回や4回でお伝えした協力会社での出向時や経営の指南書として手元にいつも置いているのが、猿谷雅治著:「黒字浮上!最終指令」です。
この本の中では、チームリーダーは何が大切か、業績浮上のために経営者は具体的に何を取り組むか、等といったことがわかりやすく、また、とても現実的に描かれています。
私の想いと重なる点が多く、真摯に学び実践をさせて頂きました。
直接お会いしたからこそ感じること
吉川常務と二人で訪れた今回のインタビュー。
先ず我々が驚いたのは、74歳というご年齢をまったく感じないそのほとばしる情熱。
終始笑顔で話され、その豊かな表情はもとより、お肌の色艶の良さが強く印象に残りました。
歳を重ねられ益々、その熱い想いに磨きが掛かっておられることを目の当たりにしたのです。
加えてすこし固くなっている我々への細やかなお心配りや、インタビュー後もご多用の中にも関わらず何度となく直接お電話を掛けてくださる等々。
まさに“知行合一”─誰しもが分かってはいるがなかなかやりきれていないことを、徹底して実行されておられる事実。
その全体からかもし出される圧倒的な存在感と、温かなお人柄に我々は瞬時に魅了され、時の経つのを忘れた至福の時間を過ごさせて頂きました。
期待や想いをはるかに超える、素晴らしい出会いをいただけたことに、改めて感謝。
『ありがとうございます!』
<完>
(2019年11月19日リライト)※当時の役職です
吉川嘉一郎常務
タイガー警備保障株式会社